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吉田松陰 最後の弟子 山田顕義

松陰の精神は顕義に受継がれる

山田顕義に志の大切さを諭した吉田松陰の扇面詩


(複製)【日本大学大学史編纂課蔵】

安政5年(1858年)吉田松陰から「与山田生」(詩)
「立志尚特異 俗流與議難 不思身後業 且偸目前安 百年一瞬耳 君子勿素餐」立志の目標が書かれた扇面を与えられる。

「立志は特異を尚(たっと)ぶ、俗流はともに議し難し、身後の業を思はず、且(か)つ目前の安きを偸(ぬす)む、百年は一瞬のみ、君子 素餐することなかれ」

吉田松陰 ~明治維新の精神的支柱~


吉田松陰自筆原稿
【萩博物館蔵(杉家寄贈)】

生年: 天保元年(1830)8月4日
没年: 安政6年(1859)10月27日
萩藩士杉百合之助の次男として生まれ、六歳で山鹿流兵学師範の吉田家を継く。
十九歳で藩校明倫館の兵学師範となり、九州、関東、東北、関西へ全国遊歴する。
二十五歳に国法を犯し伊豆下田で米国への密航を図るも失敗、萩の野山獄に投じられ実家杉家で幽囚の身となり、松下村塾の主宰として、逸材を育てた。
明治維新の精神的支柱、松陰は、希代の指導者である。

山田顕義の理念 文武両道 和魂洋才

和魂=日本の精神と伝統文化

「世界の中の日本」を意識することにより日本精神の重要性を自覚し、大和魂・茶道・書道・詩吟剣舞・能など伝統文化を愛した。

洋才=西洋の知識と技術

岩倉使節団の兵部省理事官(主席調査官)として欧米諸国を視察し、 欧米における「自主独立」とフランス「ナポレオン法典」に出会い、 法治国家建設のため尽力した。

1.日本初 山田顕義 初代司法大臣

「第一回帝国議会」司法大臣 伯爵山田顕義 明治二十三年十二月四日(木曜日) 午前十時十六分開場 1881年(明治14 年)10月12日国会開設の詔(こっかいかいせつのみことのり・国会開設の勅諭)、明治天皇による詔勅。
1890年(明治23年)を期して、議員を召して 国会(議会)を開設すること、欽定憲法を定めることなどを表明。
山田顕義は初代司法大臣として、国民の身体及び権利を保護するための文言・・・「是レハ本官ガ将来ニ希望スル所ノモノデゴザイマス」と発言を締めくくる。

2.山田顕義墓 東京都文京区大塚の護国寺(日本大学豊山高校所在地)

1893年(明治25年)11月11日、兵庫県生野鉱山で死去、葬儀は母鶴子により仏葬で営まれる。
長州藩の志士として世に立ち、武人としては日本の統合に尽瘁、この間、米欧を回覧して国際的視野を広げ、後に文治を事とするに至っては工部・内務・司法の卿および司法大臣に歴任、特に近代国民国家の基礎法制を確立。
教育による自立と進歩を標榜して日本大学の前身である日本法律学校を創立、國學院を開き、法政・中央・独協等の私学を助成した。

3.山田顕義を祀る神社 東京都文京区音羽 (山田顕義邸跡)

山田顕義本人の生前からの希望により神葬。
皇典講究所の有志による「皇典講究所葬」として神式の葬送も行われ神社に祀られる。

4.山田顕義 皇典講究所・日本法律学校

1882年(明治15年) 8月皇典講究所設立、1889年(明治22年)1月司法大臣の現職のまま皇典講究所所長就任。
同年明治22年日本大学の前身である日本法律学校・國學院大學を創立する。

5.山田顕義 日本の精神と伝統文化

山田顕義は、1871年(明治4年) 11月岩倉使節団の兵部省理事官として欧米諸国を視察した。
ヨーロッパの軍事制度を視察するため使節団一行と別行動し、1871年(明治5年)3月にパリに到着、ヨーロッパでは、主にフランス・ドイツ・スイスで兵制を調査する。
帰国直前には木戸孝允とともにウィーン万国博覧会開会式に出席し6月24日に横浜へ帰国し、1873年(明治6年)6月帰国後、太政官に「建白書」を報告した。
欧米における「自主独立」の気概を体感するとともに、滞在したフランスで「ナポレオン法典」と出会い、「法律は軍事に優先する」ことを確信、以後一貫して近代法の整備事業である法典整備と法治国家建設のため尽力、「建白書」には各国の兵学・編制や徴兵制に関して論じられており、兵部省理事官の報告としてはかなり詳細なものであるが、内容は必ずしも軍事に関することのみに留まらず「敵兵よりも知識において優れた人民(兵卒)を育成する」ことが重要であると、教育の重要性を指摘する。「世界に立憲の国は多いが法律は内容がそれぞれ異なりその国固有の慣習と当時の勢いによって制定されており、日本も自国の歴史や特徴を活かした上で作らなければいけない」を信条として初代司法大臣となる。
一方顕義は一年間のフランス等々滞在で日本精神の重要性を感じ、皇典講究所を創り所長となる。その後、日本法律学校【日本大学】・國學院【國學院大學】を創立する。

日本を創った山田顕義の言葉

  • 「軍とは何のためにあるか。帝室を守衛し人民を安全にするためである。
    しかし他にも、国には法があり律があり、教育の道がある」
  • 「欧米諸国の国法と我人民慣習の法とを斟酌し国法の条目を審議し、国法に依り以て国律を確定すべし」
  • 「英雄は死す。されど凱旋門は残る。英雄の名声と遺産によって、市民はその豊かさを享受する」
  • 「兵は凶器なり」
  • 「法律は軍事に優先する」
  • 「生きた。闘った。使命を全うした。人生に悔いはない」

山田顕義は、不平等条約改正の交渉において、日本に憲法も法律もないことが足かせになることを身をもって 経験し日本の慣習や文化を踏まえた法律をつくる必要性を力説した。
山田顕義「建白書」を見た木戸孝允は、軍事から法律の世界へ転身することを強く勧めた。
1891年(明治24年)ロシア帝国皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)が襲われて負傷する「大津事件」発生。
犯人・津田三蔵を死刑に処せとの明治天皇の御意に副えず責任をとって辞任する。
翌1892年(明治25年)11月、但馬(兵庫県北部)にて幕末の「生野の変」に敗れ自刃した奇兵隊第2代総監で あった河上弥市(再従兄弟・21歳)、最期の地に建立された碑に参拝したのち、生野銀山を視察中に没した。 正二位。勲一等旭日桐花大綬章。享年49才。
法名は顕忠院殿釈義宣空斎大居士。

1.日本初 初代 司法大臣山田顕義

 

「第一回帝国議会」 司法大臣 伯爵山田顕義
明治二十三年十二月四日(木曜日)
48歳の顕義を描いた銅版画(萩博物館蔵)
「第一回帝国議会」議事速記録第一號
大日本帝国憲法 署名部分(国立公文書館蔵)                            
署名 司法大臣伯爵 山田顕義

 

2. 山田顕義墓 東京都文京区大塚の護国寺

日本大学豊山高校所在地

3.山田顕義を祀る神社 東京都文京区音羽

山田顕義邸跡

4. 山田顕義 皇典講究所所長
-日本法律学校【日本大学】創立・國學院【國學院大学】創立-


皇典講究所
明治32年風俗画報 臨時増刊号第191号より

明治22年(1889)1月、司法大臣の現職のまま皇典講究所所長に就任。
皇典講究所の改革を推し進め、国家成立の国体を明らかにし、皇典整備に合わせ、日本国の基礎となる国典の研究を推進することにある。
当時、私立法律学校の特徴は、明治法律学校・和仏法律学校がフランス系法学、専修学校・英吉利法律学校(中央大学)がイギリス系法学と外国法の法学教育で欧米法が主流であったのを日本の歴史や伝統文化に立脚した日本法学の研究こそが喫緊の課題と考えていた。
日本法律学校 創立

5.山田顕義 日本の精神と伝統文化


建白書

山田顕義は、1871年(明治4年) 11月岩倉使節団の兵部省理事官(主席調査官)として欧米諸国を視察。
木戸孝允とともにウィーン万国博覧会開会式に出席し、1873年(明治6年) 6月24日に横浜へ帰国する。
帰国後、太政官に「建白書」を報告した。
欧米における「自主独立」の気概を体感するとともに、滞在したフランスで「ナポレオン法典」と 出会い、「法律は軍事に優先する」ことを確信、以後一貫して近代法の整備事業である法典整備 と法治国家建設のため尽力。
「建白書」には各国の兵学・編制や徴兵制に関して論じられており、内容は軍事に関することのみ に留まらず「敵兵よりも知識において優れた人民(兵卒)を育成する」ことが重要であると、教育の 重要性を指摘する。


茶会や吟会に関する書簡

「世界に立憲の国は多いが法律は内容がそれぞれ異なりその国固有の慣習 と当時の勢いによって制定されており、日本も自国の歴史や特徴を活かした上で作らなければい けない」を信条として初代司法大臣となる。
一方顕義は一年間にわたるフランス等々滞在で日本 精神の重要性を感じ、皇典講究所を創り所長となる。
そして、日本法律学校(現 日本大学)・國學院(現 國學院大學)を創立する。

山田顕義の音羽別邸 [2万坪]は、1890年(明治23年)落成し、同年に明治天皇行幸さる。 顕義には「空齋」の雅号ももつ、茶道・書道・詩吟剣舞・そして能など伝統文化を愛した。


明治天皇行幸 山田顕義の音羽別邸

海外体験を通じて、「世界の中の日本」を意識することで、「日本」の古くからの伝統文化の重要性 を見直し、「日本の精神と伝統文化」によって新日本の礎、心柱にせねばならぬとの思いに至る。
山田顕義は、「明治維新」の立役者であり、明治という新時代に西洋という激流の中 においても、大和魂の日本精神を見失うことなく、日本を創ったのである。

 

新ガイヤの創造といわれる今だからこそ、山田顕義の創った新日本「明治維新」と日本精神を、世界に発信し、乱世の地球人に伝えたいのである。

 

山田顕義

文武両道に秀で 和魂洋才 志を貫き  近代日本の礎を築いた真の功労者

長州藩士・陸軍中将・伯爵 初代司法大臣・正二位勲一等 通称 市之充、後に顕義と改める。雅号 空齋など。
1844年11月18日(天保15年10月9日)生。萩藩士 山田七兵衛の長男。
藩校明倫館に入学し、安政5年15歳で松下村塾に入門し、吉田松陰に師事する。松蔭の最年少弟子であった。 1861年(文久2年)12月、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔、品川弥二郎らとともに攘夷「血判書」(御楯組血判書)に署名。
1864年(元治元年) 7月、「蛤御門の変」(禁門の変)に参戦。
1864年(元治元年)8月、品川弥二郎らと「御楯隊」を創設し軍監として、1863(文久3)年5月、四カ国連合艦隊の「下関攻撃」(馬関戦争)で奮戦するも、長州藩は惨敗上陸される。
この敗戦により「女台場」(おなごだいば)築造する。

1863(文久3)年5月、長州藩は関門海峡でアメリカの商船、フランス、オランダの軍艦を砲撃し、攘夷(じょうい)戦を実行するが、翌月アメリカやフランスの軍艦からの報復攻撃によって長州藩の軍艦は壊滅状態になり、砲台があった前田の村落(現在の下関市前田)は焼き討ちされ多大な被害を受けた。これにより萩の民の間に「自らの手で城下を守ろう」との機運が高まり、萩藩は土塁の築造を命じる。これによって、上級武士の妻や奥女中、町人にいたるあらゆる階層のものが作業に参加したことから通称「女台場(おなごだいば)」という。倹約令で禁じていた絹の着用を自由とし、歌い踊り酒も勝手次第とした。着物を新調し美しさを競う者や酒食にふける者まで現れ、後に制限令を出すほどであった。一丸となった活気の中、9月に長さ100メートルから300メートル、高さ5メートルもの土塁が6ヵ所に完成。山口を代表する民謡「男なら」はこのときの囃子歌(はやしうた)であるという。

同1863(文久3)年12月、対幕恭順論の「俗論派」による藩支配に対する高杉晋作の「奇兵隊」決起(功山寺挙兵)に参戦し勝利を収め、 藩内の「俗論派(佐幕派)」の排除に功績をあげる。
1868年1 月27日 – 30日(明治元年/慶応4年1月3日 – 6日)の「鳥羽・伏見の戦い」「戊辰戦争」に加わり、「箱館戦争」時には陸軍参謀兼海陸軍参謀として、官軍を勝利に導く。
維新後、1874年(明治7年)、江藤新平らが起こした「佐賀の乱」。
1877年(明治10年)、西郷隆盛らが起こした「西南の役」に征討軍の将として参戦し鎮圧。顕義の戦術は「用兵の妙 神の如し」と評される。

明治新政府では、東京鎮台司令長官・司法大輔・陸軍中将・参議卿・工部卿・内務卿・司法卿などを歴任。
1871年(明治4年) 11月、岩倉使節団の兵部省理事官(主席調査官)として欧米諸国を視察し、「建白書」を報告する。1885年(明治18年)、初代の司法大臣として入閣し、伊藤博文、黑田淸隆、山縣有朋、松方正義の四代の内閣で司法大臣を歴任。 法典編纂に貢献し、「法典伯」「日本の小ナポレオン」ともいわれる。
明治維新時には軍人として新政府樹立に貢献し、明治政府樹立後は新日本の建立者として近代日本の法典整備に尽くした。 顕義は教育を重視し、「皇典講究所」所長として1889年(明治22年) 日本法律学校【日本大学】を創立、1890年(明治23年)、國學院【國學院大学】を設立する。
1892年(明治25年)、生野銀山視察中に急逝。

正二位。勲一等旭日桐花大綬章。享年49才。 法名は顕忠院殿釈義宣空斎大居士。